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将棋プロ・家康と家元・段位制度の誕生

 

 江戸時代の囲碁・将棋の家元については、聞いたことがある方も少なくないでしょう。将棋プロの始まりと見ることもできますが、その前から広い意味でプロといえる「将棋指し」は存在しました。その頃は、今の将棋が定着しつつありましたが、それをさらに推し進め、家元を利用して全国統一基準の段位制を築いたのが徳川幕府です。

遊芸者としての将棋の自立

 遊芸者とは聞き慣れない言葉ですが、その昔、芸事で身を立てる人のことをいいました。たとえば、琴、三味線、書、画、舞踊などの芸に秀でたものが、それを演じたり教えたりすることで生計を立てていたのです。今日でいうプロですね。

 囲碁・将棋も江戸に幕府ができるかなり前から、遊芸者の仲間入りをしていました。上流階級である公家や上級の武士は遊芸者にはなりませんから、すでに将棋は一般庶民にも楽しまれ、庶民の中から優れた技量を持ったものが出ていたということになります。広い意味では、「将棋のプロ」が存在していたと考えてもよいでしょう。

 囲碁・将棋の「プロ」の中には、賭博(とばく)の道具にする者もいたようで、生きていくためには勝たなければならないという状況の中で、技術が磨かれたという面も見逃せません。もちろん、一方では中国から入ってきた「琴棋書画」という教養思想も、上流階級には浸透していましたから、囲碁・将棋も高尚な芸事としての地位を次第に築きつつあったのです。

徳川家康と囲碁・将棋

 戦国武将やその家臣には囲碁・将棋をたしなむ人が多かったようで、徳川家康もその例外ではありません。しかも、アマとしてはかなり強かったとか…。おそらく、囲碁・将棋の文化的な価値を高く評価していたのでしょう。江戸に幕府を開くとまもなく、家康は囲碁と将棋を公認として定め、家元制度が生まれました。公的な権力者による初めての保護政策です。

 なお、家康は当時、まだ人気のあった中将棋を選ばず、新しい将棋(現代の将棋)を選びました。そのおかげで中将棋は徐々に衰退していったわけですから、いずれは新しい将棋が優位に立ったにしても、家康が中将棋を早々と隅に追いやったといえるでしょう。

俸禄をもらった碁打ち・将棋指し

 画期的なことは、選ばれた碁打ち・将棋指し(棋士という言葉はまだなかった)が、低額とはいえ俸禄をもらったことです。しかし、それと引き換えに義務も負わされました。芸を披露するために、江戸への長期滞在を強要され、幕府の末端組織に組み込まれて煩雑な雑務を課されるなど、厳重に管理されたのです。

 この時、将棋指しの俸禄は碁打ちよりも低かったそうです。碁のほうが上位だと定めた理由は不明です。「碁は将棋より高尚だ」という偏見は、今でも年配者の一部に根付いていますが、これは徳川家康にも責任の一端があるのかもしれません。その他、昔から僧侶が囲碁を好んだということも、将棋を碁より下に見ることに関係していると思われます。

全国統一段位と公認=家元の定着

 将棋の強さを表わす基準は長い間、段と級を認定するという形で続いていますが、そうした制度が生まれたのも徳川時代です。俸禄をもらう身分になった将棋指しは、江戸に住まわされて、自分たちの棋力を基準に段の認定に当たりました。それができるのは幕府の組織、寺社奉行の監督下にある家元だけです。

 こうして全国統一基準の段位認定制度が生まれたわけですが、段位の認定ができるのは家元だけですから、その権威を守るべく必死でした。家に強い子どもが生まれなければ、才能ある少年を養子にして家元を守ったのです。以上は、囲碁界についても事情はまったく同じです。

 なお、徳川家は囲碁・将棋のトップ・プレーヤーたちを庇護したという面で評価できますが、それと引き換えに家元たちはかなりの義務を負わされました。しかも、それは徳川家にとっては、諸藩による運営や介入を許さず、「文化の中央集権化」を図ることによって、確固たる権力を掌握するということに役立ったともいえるのです。


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