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家元三家・歴代名人〜将棋連盟誕生まで

 

 現在のルールによる将棋の歴史は、徳川幕府の誕生から始まるといっても過言ではありません。江戸時代につくられた家元制度は約300年続き、11人の「名人」を生み出しました。家元三家が競う合うことによって将棋の技術も進歩し、また全国統一段位制度等も手伝って、江戸中期には将棋は庶民に深く浸透しました。

 しかし、世襲制が前提となった家元制度と、一度名人になったらどんなに強い人が現れても終生名人位が守られるシステムは、長い年月の中で制度疲労し、明治維新と共にその歴史に終止符を打つことになります。そして、名人位を初めて対局で争う形は、昭和12年まで待たねばなりませんでした。

 以下に、名人・将棋所の誕生と、各家元別の歴代名人の紹介、さらに実力制名人の誕生と日本将棋連盟設立の経緯を簡単にまとめました。

本因坊算砂(名人)と将棋所

 「本因坊」は、囲碁ファンにはなじみの名です。伝統あるタイトル戦にその名を冠されているこの本因坊が、将棋とどう関係あるのかというと、実は第一世本因坊算砂という人がいて、囲碁の名人であるとともに将棋の名人でもあったのです。

 算砂に囲碁の名人という称号を与えたのは織田信長だといわれますが、のちに徳川幕府は算砂を初代囲碁将棋統括最高位(連絡係)に命じました。現代ではプロになることさえ、囲碁と将棋の両方はほとんどありえない話ですが、強者が互いに切磋琢磨するという状況にない、囲碁・将棋のあけぼの時代ではあり得たのかもしれません。

 それはともかく、本因坊算砂は囲碁・将棋の両方の名人を兼ねると共に、将棋所という称号を名乗りました。その後、算砂は将棋所の称号を大橋家に譲り、やがて名人・将棋所は、「大橋家」「大橋分家」「伊藤家」という3つの家元のうち、最も強い者が名乗ることになったのです。

将棋家元三家と終生名人の歴史

 本因坊算砂から将棋名人・将棋所の称号を譲り受けたのは大橋宗桂で、これが将棋家元の始まりです。その後、大橋分家と伊藤家が家元となり、将棋家元三家が出そろうわけですが、家元は明治維新後まもなく崩壊しました。しかし、家元三家が名人の称号を巡って切磋琢磨することで、将棋は江戸時代に技術的に大きな進歩を遂げました。ここでは名人に推挙された11人について簡単に紹介します。

●大橋家

大橋宗桂(初代)…初世名人
 本因坊算砂との親交があり、碁の腕前も相当なものとされる。家康より五十石五人扶の俸禄を受けて、将棋家元の元祖となった。宗桂の献上図式が詰将棋の始まり。
大橋宗古…二世名人
 初代宗桂の家禄を継ぐことで、家元世襲の形ができた。詰将棋「象戯図式」を献上し、その中で「行き場のない駒」「二歩」「打歩詰」を禁じ手として、初めて将棋ルールを成文化した。その他、「千日手は仕掛けたほうから手を変えること」もルール化したが、先日手に関しては現代とは異なる。
大橋宗桂(五代)…四世名人
 伊藤完寿の子で、大橋家に養子入りして家督を継ぐ。将棋の心得「象棋百ヶ条」を記す。

●大橋分家

大橋宗与(分家三代)…六世名人、
 大橋分家で初の名人。御城将棋では五代宗桂と二代宗印に実力で圧倒されていたが、宗印が先に死去し、次に続くものが若すぎたので、76歳という高齢で名人に推される運に恵まれた。

大橋宗英(分家六代)…九世名人
 家元制で最強の名人にして、「近代将棋の祖」と言われる。従来の戦術や大局観に新風をもたらしたからである。いわゆる「焦土戦術」といった基本思想をもたらしたのも、宗英に始まるとされる

●伊藤家

伊藤宗看(初代)…三世名人。
 年少の頃、宗桂、宗古の門下となり、弱冠18歳で一家を興した早熟の天才。在野の強豪たちと数多く対局して新趣向を試み、創成期の将棋界に技術的進歩をもたらす。詰将棋は、詰上り図の持駒余りを廃し、それまでと比べて洗練された作品を残している。
伊藤宗印(二代)…五世名人
 宗看の養子で、養父同様に早熟の天才。 5人の息子を全員高段者に育て上げ、特に三代宗看は七世名人、看寿は八段・贈名人になった。史上最強の一家といえる。
伊藤宗看(三代)…七世名人
 そのあまりの難解さから、「詰むや詰まざるや」として有名になった、献上図式「将棋無双」の作者である。兄が早逝したため10代で家督を継ぎ、23歳で将棋所に就いた。「鬼宗看」と言われるほどの実力で、江戸時代の歴代名人のトップクラス。
伊藤看寿(初代)…八段、贈名人
 三代目宗看の弟で、献上図式「将棋図巧」は、兄の「将棋無双」とともに最高傑作とされる。それは詰将棋をパズル的なものから、芸術的なものに引き上げたからだといわれる。看寿の時期、将棋界の上位はほぼ伊藤家の兄弟で占められた。
伊藤宗看(六代)…十世名人
 江戸時代最後の名人。攻めっ気が強く、さまざまな新手を試みた。
伊藤宗印(八代)…十一世名人
 家元としての最後の名人で、明治に入ってからの将棋界の再建に努めた。しかし、将棋界は分裂して、プロとして生きていくには難しい時代を迎えた。

実力制名人位と日本将棋連盟の誕生

 明治に入って家元による名人制がなくなった後、昭和初期までの将棋名人は、年功ある実力者が推挙されて名乗る名誉称号となりました。一度就いたら終生続く名人位は、ますます実力ナンバーワンとは程遠いものになって権威は低下し、将棋の普及にとっては受難の時代になりました。

 そうした時代に終止符を打ったのが、大正13年の「東京将棋連盟」です。東京の棋士が団結して結成したもので、名誉会長に関根金次郎、会長に土居市太郎が就任しました。その時、関根金次郎は第十三世名人(終生)でしたが、昭和10年に実カによる短期名人制へと移行する英断を下しました。こうして、十三代、三百年に渡って続いた終生名人のシステムは消滅したのです。

 東京将棋連盟はその後、関西棋士の合流によって「日本将棋連盟」となり、「将棋大成会」への名称変更を経て、昭和22年に再び「日本将棋連盟」になっています。その時に会長に就任したのが、実力制に移行後初の名人木村義雄(十四世)です。将棋連盟は昭和24年に社団法人となり(平成23年からは公益社団法人)、今日に至っています。


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