負けて覚える将棋かな―私の超ヘボ時代
私(当サイト管理人)が将棋を覚えたのは小学5、6年生の頃だったと思います。同い年の従兄弟にルールを教わってすぐにいい勝負になったので、相手も相当に弱かったのでしょう。その従兄弟は母親から教わったそうで、当時でもかなり珍しいケースです。
小学校時代の将棋で強く覚えていることは、同居する祖父に歩三兵(ふさんびょう)で相手をしてもらったことです。歩三兵とは、上手の王の回りに駒が何もない裸玉で、その代わり初めから持ち駒に歩三枚があるという手合です(詳しくは本サイト「歩三兵(上手二歩あり)の将棋」をご覧ください)。
こんな人をバカにしたハンデがついていても、初めはなかなか勝てません。悔しくて何度も挑戦しましたが、祖父は歩三兵で勝つのが快感らしくて、どう指せばよいか教えてくれないのです。ちなみに算数に関しては、祖父は私が学校に上がる前から、両手両足を使わないと解けない足し算の問題でずいぶん鍛えてくれました。
歩三兵を卒業して最初の衝撃
歩三兵を卒業して、飛車角落ちでも祖父に勝てるようになった頃、私は同級生の中では強いほうになっていました。すると、母の実家の祖父がそのことを聞き、夏祭りに遊びに来た折に将棋をやろうと言ってくれました。手合いは6枚落ちだったと思います。同居する祖父には飛車角落ちで勝てるのに…と思ったのですが、何回やっても歯が立ちません。とんでもなく強い人がいるものだと思いましたが、今思えば母方の祖父の棋力は「田舎初段」程度。縁台将棋では敵なしでも、今の私よりは少し弱かったと思います。
その時の将棋で、印象に残った場面があります。居玉の頭の上に☖5七銀成とされ、私がそれを追い払おうとして☗5八歩と打ったところです。次の瞬間、祖父は何食わぬ顔で手持ちの桂馬をつまみ上げ、☖6七桂と打ちました。当時の私は、こんな簡単な詰めにも気づかないレベルだったのです。敵の駒が玉に接していなくても、たった2枚の駒で詰んでしまうということに衝撃を受け、それが強くなるきっかけになったような気がします。
天狗の鼻をへし折った、隣のクラスの目立たない男
あれは中学1年の終わり頃だったでしょうか。私はクラスでは一番将棋が強いということになっていました。ある日、親しくしていた級友が「隣のクラスのMがすごく将棋が強いのでやってみたら」というので、その級友に連れられてMの家で対局をすることになったのです。Mはものすごい早指しで、第1局はたちまち短時間で負かされてしまいました。再度挑戦するもまったく歯が立たず、「クラス・ナンバーワンがこんなにぶざまに負けるのか」とがっくりきたものです。ちなみに、Mの学校の成績は中の下、私はクラスで一番でした。学力と将棋の強さはさほど関係ないのですね。
Mに完膚なきまでに負かされた時、強烈に覚えた手筋がありました。それは歩の突き捨てと香の田楽刺しのセットです。右の図、周囲の状況は忘れましたが、相手が香を持っていて☖6五歩と突いてきたところです。私は何も考えず☗同歩と取り、次に☖6六香と打たれて事の重大さに気づきました。歩が打てない! 金が逃げれば王手になる! こともあろうに私はこの日、香の田楽刺しを2度も食らったのです。敵は、こんな三手一組の手筋は常識とばかり、ノータイムでやってきます。まさに格の違いを見せつけられました。手筋は痛い目にあって覚えるものなのですね。
棒銀と原始中飛車しか知らないヘボ将棋が、振り飛車を知った日
「今度は飛車を落とそうか。飛車角落ちでもいいかな…」などと言われては、立つ瀬がありません。当時の棋力は、1年後に推定した感じでは6~7級くらいでした。Sは初段かそれに近い棋力だったに違いありません。飛車落ちで勝負したら負けていたでしょう。
あまりに見事な負けっぷりに、私は振飛車戦法全般を解説した本などを買いこみ、生まれて初めて将棋の勉強を始めました。まもなく高校最後の夏休みに入り、苦手科目の地理に加えて将棋を勉強の時間割に組み込んだほどの熱中ぶりです。無事、某国立大学に入った後、私の棋力は3級に上がっていました。実戦をせず、勉強だけで将棋が強くなった特殊なケースといえるでしょう。
数年前に将棋を再開し、改めて「負けることの意味」について自戒を込めて記すことにしました。強い人との対局が少なければ、上達は停滞します。私の体験が参考になれば幸いです。