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知っておきたい昭和・平成の大棋士

 木村義雄 大山康晴 升田幸三 加藤一二三 米長邦雄
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羽生善治 永世七冠王の偉業! 

平成29年12月5日、羽生善治さんが渡辺明前竜王を破り、前人未踏の「永世七冠」を達成しました。

 

 将棋を始めたばかりの若い方は、現在タイトル戦を賑わしている棋士はある程度知っていても、戦後から21世紀初頭までに活躍した歴史に残る棋士は、あまり知らないかもしれません。そこで、将棋を楽しむなら最低限、知っておきたい大棋士を簡単に紹介します。

 選んだ基準は、実力制初の名人に就いた木村義雄十四世名人に始まり、永世名人の資格(名人位5期獲得)を得た棋士、その他のタイトルの永世称号を得ている棋士、及びそれに準ずる実績を残した歴史に残る棋士までとなっています(平成28年3月現在)。なお、「それに準ずる」には多少の主観が混じっていることをご容赦ください。

木村義雄(十四世名人)

 木村義雄は、推薦による終生名人ではなく、初めての実力制の名人になったことで知られますが、その強さは図抜けていました。大正15年、22歳という異例の若さで八段に昇段。その後、他の先輩八段全員を「半香の手合い」に指し込むという快挙を成し遂げました。そしてついに昭和12年、阪田三吉を京都南禅寺で破ったあと、花田長太郎を破って第1期名人になりました(就位式は翌年)。その後、挑戦者のない年2期と、塚田正夫に奪われた2期を挟んで、通算8期名人位についています。

 木村名人の強さは、「名人八段勝抜戦」において、半香の手合いで九人抜きをした記録からも、群を抜いていたことが分かります。「打倒木村」は台頭する若手棋士の合言葉でした。

大山康晴(十五世名人)

 大山 康晴(大正2年〜平成4年)は、永世名人の他に、永世十段・永世王位・永世棋聖・永世王将の称号を得ています。タイトル獲得数は80回で歴代2位一般棋戦44回は歴代1位、また通算勝利数は1433勝でこれも歴代1位。書ききれないほどの実績を持つ。

 大山の最初の活躍は名人戦の舞台でした。昭和26年に木村名人からタイトルを奪うと、破竹の5連覇をして大山時代が始まりました。さらに、升田幸三に名人位を2期明け渡した後に返り咲き、今度は実に13期連続名人位に就いています。昭和37年〜昭和45年は全盛時代で、五冠王に4回なりましたが、その間、タイトルを19回連続で獲得したこともあります。この時代に全盛期を迎えた一流棋士は、実に不運としかいいようのない、大山名人の活躍ぶりです。

 日本将棋連盟会長。将棋界初の文化功労者顕彰。正四位勲二等瑞宝章を受章。出身地の倉敷には大山名人記念館がある。

升田幸三(16〜17期名人)

 
 長く伸ばしたあごひげ、鋭い眼光、武道家を思わせる和服姿は、それだけでファンを魅了したものです。木村全盛期に頭角を現し、新しい戦法で木村を苦しめましたが、弟弟子の大山康晴に先を越されてしまいます。主な実績は、第16〜17期名人(昭和32〜33年)と、三冠王の達成ですが、「名人に香車を引いた男」としてその名を歴史に残しています。その頃、タイトル戦で3連勝すると「半香落ち」の手合になる制度があり、升田八段(当時)は大山名人を相手に3連勝して、差し込んでしまったのです。
 ※半香落ち=香落ち(左側のみ)と平手(駒落ちなし)を交互に指す手合割のこと

 そのほか、「新手一生」を掲げ、新戦法や妙手を繰り出して、プロをもうならせました。その功績を称え、新戦法を編み出した棋士に授与される「升田幸三賞」が生まれたほどです。

加藤一二三

 昭和29年、史上最年少の14歳7ヶ月でプロ棋士になり、当時、中学生棋士も初めてだったので大きな話題になりました。その後、順位戦で毎年昇段して18歳でA級八段。この時についた名が「神武以来の天才」です。名人位には一度しか就いていませんが、一般棋戦優勝23回は歴代4位。また、A級在籍期数は通算36期で、永世名人の称号を持つ大山44期、中原29期(いずれも名人在位を含む)と比べても遜色はありません。平成23年に、史上3人目の1300勝を達成しています。

 加藤一二三九段は「奇行」の多いことでも有名で、対局中に讃美歌を口ずさむとか、対戦相手の後ろに立って盤面を眺めるなどの行為が伝わっています。クリスチャン、長考派、早口の解説、長いネクタイ、対局時の板チョコとうな重(中食)、野良猫の餌付け…など、明るい話題の尽きない棋士です。

 〔追記〕 平成28年9月、加藤一二三九段の持つ史上最年少プロ棋士の記録は62年ぶりに破られました。その棋士の名は藤井聡太四段14歳2か月の中学生棋士誕生に将棋界は大いに沸きました。しかも、その3か月後、何と藤井四段はプロデビュー戦を、最年長棋士・加藤一二三九段と戦うことになったのです。結果はご存知のように藤井四段の勝ちで、史上最年少勝利の記録(14歳5か月)も併せて樹立しました。なお、62歳の年齢差も、プロの公式戦対局では最多で、記録づくめとなりました。なお、加藤一二三九段は歴史に残る大棋士であるにもかかわらず、その独特の愛らしいキャラクターから、引退前から「ひふみん」の愛称でタレントとして活躍。将棋を知らない人にまで話題となり、藤井聡太と並んで将棋の普及・発展に寄与しました。

米長邦雄(永世棋聖)

 名人位は1期だけですが、タイトル獲得数は通算19回で歴代5位に入っています。その中で棋聖は7回獲得し、永世棋聖の称号を得ています。また、一般棋戦の優勝回数も多く、合計16回。昭和の棋士のイメージがありますが、宿願の名人位に就いたのは平成5年でした。

 大盤解説と将棋雑誌のエッセイはいずれも軽妙洒脱で、数々の「米長語録」を残しています。その中でも、「三人兄弟の兄達は頭が悪いから東大へ行った。自分は頭が良いから将棋指しになった」はあまりに有名です。平成17年〜24年に日本将棋連盟会長。平成24年12月、69歳で亡くなりました。

中原誠(十六世名人)

 大山康晴を止めた男=中原誠は、奨励会時代から将来の名人候補と言われたといいます。しかし、期待に反して三段リーグを6期(3年間)も足踏みし、18歳でやっとプロ棋士となりました(それでもかなり早いほうですが…)。それからの中原は順位戦を4年間でA級まで駆け上がり、A級2年目(24歳で)に名人挑戦権を得て、大山名人から名人位を奪取しました。そして、この年(昭和47年)から9年間、名人位を守り続けたのです。あまりに強すぎる大山康晴に代わるスターとして、将棋界は中原を「棋界の若き太陽」と呼びました。

 その後、名人位を加藤一二三に奪われた後、谷川浩二が名人を2連覇し、谷川時代到来かと思われましたが、再び中原が取り返し、以後、中原3連覇、谷川2連覇、中原3連覇と続きます。

 名人通算15期タイトル獲得数64期(歴代3位)一般棋戦優勝回数28回(歴代3位)。昭和42年には、年間勝率記録0.8545(47勝8敗=歴代1位)を記録。十六世名人の他に、十段・永世王位・名誉王座・永世棋聖との永世称号5つを持つ。平成21年3月引退。

谷川浩司(十七世名人資格者

 昭和51年12月、史上2人目の中学生棋士が誕生しました。谷川浩司14歳8か月。加藤一二三の最年少記録には1か月及びませんでしたが、棋界はこの若き天才の出現に大いに沸きました。

 谷川は、加藤、中原が最短の4年で駆け上がったA級を5年かかっていますが、その後すぐに名人戦の挑戦者になっています。その時の名人は、目標としていた中原ではなく加藤でしたが、見事、初タイトルを名人で飾りました。史上最年少21歳の名人誕生です。その後10年間、名人位は谷川(4期)と中原(6期)の2人が独占しました。なお、谷川が十七世名人の称号資格を得るのは、その後、羽生善治が登場して名人3連覇をした後でした。中原、羽生という大巨人にはさまれた世代の中で、唯一、将棋史に光彩を放った棋士です。

 タイトル27期(歴代4位)一般棋戦優勝22回(歴代5位)

羽生善治(永世七冠王資格者)

 平成8年2月14日、250名近くの報道陣が集まる中で、王将戦第4局(谷川王将vs羽生六冠)は最終場面を迎えていました。史上初の七冠王誕生の瞬間です。このレジェンドに、将棋界のみならず日本中が湧きたちました。しかし、七冠達成までの道のりは、天才中の天才をもってしても平たんな道のりではありませんでした。

 羽生善治は、昭和60年12月三段で既定の成績を収め、史上3人目の中学生棋士となりました。その翌年(実質的にはプロ初年度)、全棋士中1位の勝率0.741で将棋大賞の新人賞と勝率一位賞を受賞します。さらに昭和63年には、対局数、勝利数、勝率、連勝の記録4部門を独占して、最優秀棋士賞を史上最年少(18歳)で受賞。ちなみに、記録4部門独占は羽生だけしか達成していなく、その後も含めて4回も記録賞独占を果たしています。NHK杯優勝をも果たしたこの年は、まだタイトル戦には登場していないとはいえ、羽生時代の始まりといってよいでしょう。

 平成に入って、羽生は賞金額の最も多い竜王を、19歳2か月(当時の最年少タイトル記録)で獲得します。しかし、翌年から4か月の無冠期間を挟んで、タイトル1冠の時代が続きます。平成4年、王座と棋王の2冠。さらに同年、谷川浩司(3冠)から竜王を奪って3冠になり、ようやく最多タイトル保持者になりました。そして翌年には棋聖、王位を加えて、大山、中原以来の5冠を達成し、未踏の7冠を目指すことになったのです。

 平成6年、竜王位を奪還して史上初の六冠王となり、いよいよ残るタイトルは一つだけ。立ちはだかるのは谷川王将です。この年、羽生は王将の挑戦権を得て、翌年に7冠王をかけた戦いが始まりましたが、結果は7局までもつれ込み、千日手指し直しの後、谷川王将に防衛されました。これで全冠制覇は振り出しに戻ったも同然です。なぜなら、来期は6つのタイトル戦をすべて防衛した上で、王将戦の挑戦権を獲得しなければならないからです。しかし、こうしたほとんど絶望的な状況で、六冠をすべて守り切った上に、再び谷川王将に挑戦したのです。結果は、冒頭のとおりストレート勝ち。将棋に無関心だった人まで夢中になる、文字通り世紀の快挙でした。

 このようにまるで記録を塗り替えるために生まれてきたような羽生善治ですが、まだまだ記録は更新され続けます。以下は歴代記録の主なものです。(平成30年1月現在)

〔歴代記録1位〕 年度対局数89(平成12年)、年度勝数ベスト68(平成12年)、タイトル獲得回数99、同一タイトル通算獲得26(王座 )、同一タイトル連続獲得19(王座)
一般棋戦優勝回数44
(大山康晴も44回)  永世七冠王(称号は引退後)

森内俊之(十八世名人資格者)

 森内俊之は、いわゆる羽生世代の代表的棋士で、羽生善治佐藤康光と共に通称「島研」のメンバーでもありました。羽生の活躍があまりにも華々しかったため、その陰に隠れていましたが、平成14年に名人位に就くと、いったん羽生に奪取されるもすぐに取り返し、たちまち4連覇して永世名人の資格を得ました。この時、羽生の名人在位期間は4期。羽生の先を越した形になりましたが、この後も2人は名人戦を舞台に何度も戦っています。羽生同様、まだまだタイトルを取り、記録を伸ばしている最中の棋士ですので、詳しい戦歴の説明は省略します。

 なお、島研とは島朗が六段の当時に、奨励会にいた森内と佐藤を誘って開いた研究会のことで、1年後には羽生が加わりました。パソコンを利用した将棋研究のパイオニア的な存在で、特に序盤研究において新風をもたらしました。島研のメンバーはのちに、島朗が竜王になった後、全員が竜王位を獲っています。また、島以外の全員が名人なっています。


※羽生世代以降の棋士に関しては、すでに歴史に残る棋士として十分の実績を残している渡辺明(竜王戦8連覇)を含め、まだこれから全盛期を迎える可能性のある棋士については「将棋の歴史」に入れるのは忍びなく、省略しました。


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